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小口久雄 (おぐち・ひさお) |
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ヒットメーカー代表取締役社長。1984年入社。 当初はプランナーとして多くのプロジェクトに携わる。手掛けた作品は、家庭用ゲーム、アーケードゲームにとどまらず、メダルゲームなど非常に多岐にわたる。 1993年、AM3研部長に就任。 2000年、(株)ヒットメーカー代表取締役社長に就任。 代表作に、『スーパーモナコGP』(業務用)『ウォーリーをさがせ」『ビンゴパーティ』『ダービーオーナーズクラブ』など。 1960年3月5日生まれ。B型。長野県出身。 |
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■『どきどきペンギンランド』が生まれるまで ―― まずは『どきどきペンギンランド』(以下、『どきペン』)の生まれた経緯を教えてください。 小口■サントリーがペンギンのCMやってたじゃない。聖子ちゃんの『スウィートメモリーズ』がバックに流れるやつ。会社から宿題が出て、世のなかがペンギンブームだからペンギンをテーマにした企画をつくれ! っていうのが発端。 全員がこの宿題書いてきて、選ばれたのが『どきペン』だったんだよ。でも、その前にもいくつか企画書いてボツってて、それでいくつかやっていくうちにこれに至ったんだな。 ―― ちなみにボツったのはどんな感じのゲームだったんですか? 小口■任天堂の『エキサイトバイク』をキャラだけペンギンにしたようなゲーム(笑)。 |
▲インタビューが行われたのはヒットメーカーの社長室。 ビンゴ機3台に、壁にはダーツ……。「隣の部屋にはもっと大きなダーツがあるよ(小口)」 |
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―― あはは。スゴイなぁ(苦笑)。……『どきペン』が小口さんの一作目ですよね? 小口■そうそう。俺が自分の企画でゲームを作らせてもらった最初のゲームだから、そういう意味では思い出のゲームだよ。記念すべき一作目。 その当時はグラフィックよりもゲーム性そのものに面白さの主流があったよね。なぜならばSG-1000で出せる絵って限られてたから。 スプライトが1枚に1色しか使えなくてペンギンは白と青の2枚使って表現してる。ペンギンの目も、ただの抜きを作ってるだけなんだけど、きちんと目に見えるのがスゴイ。 ―― うんうん。 小口■そうそうスゴイと言えば俺もスゴイ(笑)。 『どきペン』とは関係ないんだけど、1984年当時、社宅でドロボー捕まえて警察に表彰されたんだよ、俺。ハーモニー(※セガの社内報)にも載ったよ! これはスゴイでしょ? ―― スゴイです(苦笑)。 |
▲これがその時のハーモニーの写真。一番右が若かりし頃の小口さん。 記事の中では、若手の有望社員と紹介されていました……。 |
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■毎晩ビンゴだった頃の小口さん ―― セガに入る前はどんなゲームが好きだったんですか? 小口■セガに入る前はもちろんインベーダーやギャラクシアンとかもやったけど、どちらかというと“魔のゲーム”と言われていたビンゴ機の方がやってたかな。 大学時代は3年間くらい、新宿のシグマ系列のお店に毎晩毎晩通っていたんだけど、その後1年くらいは店員として(ビンゴ機を)やってた(笑)。新宿のコマ劇場あたりの某店で。 ―― そんなにビンゴって面白いんですか? 小口■ゲーム性ということでは今でも一番面白いと思っている。ビンゴフリークっていうのはどちらかというと年上の人が多かったのね、大人のゲームだから。 歯医者さんとか、ラーメン屋のおっちゃん、水商売の人とか色んな職業の人がいて、一緒に旅行に行ったりサークルまで発展した。 今のうちで作るゲームのなかにある、みんなで遊ぶとか、コミュニケーションを大切にするっていうコンセプトは、ここらへんに根付いてるんだよね。 だから、『どきペン』の後、『ワールドビンゴ』とか『ダービーズオーナークラブ』とかメダルやってるのは、これが原点。 ―― なるほど。 小口■でも、そんなビンゴ機も勉強しないと卒業できないと思って大学5年のときにやめた(笑)。その時、ゲーム業界で有名だったのはセガ、ナムコ、タイトー、データイーストとかで、中身でいうとナムコが一番好きだった。 『ゼビウス』見たときは「なんじゃこりゃ、他のゲームと違う種類だ!」と思ったねぇ。背景に色がついていて、しかもゲームに影響してる。それから大学の最後にハマッたのは『リブルラブル』だね。店員さんからバシシマーカーもらって遊んでた。 で、俺は企画志望だったから、ナムコに企画書送って、返事を待ってる間にセガの面接を受けてたの。そしたら受かっちゃって……そんな感じ。 |
▲社長室にあるビンゴ機は、バリー社の'77年のやつとかシグマのもの。 模範プレーを見せられながら、ここでは書くことのできないビンゴの世界が語られました。 ▲今日、小口さんが一番真剣な顔をした瞬間。 |